うさぎとうさぎどし ― 2020/03/27 14:22
3月22日は愛兎ミッフィ〜(フィー君)の誕生日でした。
今年で9歳、いつまでたっても子ウサギのように小さな体ですので、知らない人からは成長途中と頻繁に勘違いされますが、小さくても立派なお爺さんウサギです。
……と、久しぶりにうさぎのフィー君の達者な姿を記事にUPする予定でした。ごくたまにヨダレ問題が起きる以外、毎日とても元気に過ごしているので、こうして無事に誕生日を迎えられて喜んでおりました。
ところが、老人ホームでお世話になっていたじーちゃん(私の父)が、うさぎのフィー君の誕生日の日に天国へ……通夜だ葬式だで、うさぎの誕生日を祝う更新記事は叶いませんでした。
ということで、珍しく同じ生きものでも、今日は人間のお話です。
じーちゃん(亡父)は干支でうさぎどしの生まれ、卯年の翁でございました。
その昔、“ラビットちゃん”という名の、どこからどう見てもピーターラビット似のぬいぐるみを買ってくれたり、そもそも買ってくれたぬいぐるみはウサギだけ数が多かったり、最近でもローソンでミッフィの食器を集めては「はいミッフィ」と渡し続けたり、子ども相手に謎の “ウサ活 ”に励んでおりました。
……で、ウサギ好きかと思いきや、本人はフクロウ雑貨に目がなかったりしたのですが、おかげで、親と同じ年代の方々に父のプロフィールを説明するときは、まずいちばんに「父はうさぎどしです」と言わせていただいておりました。
そんな父がお世話になっていた施設(特養/老人ホーム)は、先月の2月にはコロナウィルス対策で面会不可になっておりましたので、結局、会えず仕舞いのままお別れになりました。
最後は老衰で息を引き取ったので、コロナ対策が原因で会えなかったことが残念で、間接的とはいえコロナウィエウスには大変な迷惑を被りました。
そんなさなか、ふいに明るい気持ちになれたことがひとつ……それは、亡くなった日、施設の近所のコブシの花がちょうど見頃を迎えていたことでした。
生前はこの花が咲くと喜んでいたので、いい具合に満開の白いヒラヒラの花々に見送ってもらうことができて、ラッキー……きれいなものや自然を楽しむのが好きな人だったおかげで、コブシの花をサカナに思い出話しができました。
季節になると咲く花を待ち続けて、1年ぶりの開花を喜んでは「また今年も〜」と言えるのは素敵なことだと思います。
それに、季節の花との再会だけでなく、たぶん人間や生きものの1年を祝う気持ちも、それに似たような心境・感覚ではないかと思います。特に、人間よりも寿命が短い動物たちが相手だと、1年1年がとても大事に感じられますものね?また今年もいつものように祝えたね、みたいに……。
そんなこんなで、庭でも山でも公園でも、季節の花が次々と咲きはじめて、やっと話題に事欠かなくなってきましたが、ここ数日はブログの更新を忘れてボンヤリしておりました。
あまりにボンヤリしていると、これからの百花繚乱に間に合わなくなりますね……庭へ出て、せっかく1年ぶりに咲いた花々を愛でて、力づけてもらいましょう。
今日の話のしめくくりに、亡き父が最も好きだったツバキの花の写真をひとつ。
*写真は大佛次郎(おさらぎじろう)茶亭の庭のツバキ 何年か前の記事でも使いました
亡父はツバキの中でも侘助(わびすけ)が最も好きで、マイカップには、必ずツバキが描かれたものを飽きることなく使っておりました。
人によると思いますが、身近な存在(人でもペットでも)が好きなもの、大切にしているものをどこかで見つけたりすると、手に取ったり絵や写真にしたりしてしまいませんか?それが誰かの好物なら買って帰るのと同じで……。それまで関心がなかったはずのものにも、新しく価値が生まれて、それを介してつながっているような感覚を味わえますよね。
そばにいようが離れていようが、そうやって ”ある気持ちになれるもの” を共有して、特別な感覚になれることは、愉しいことだと思います。
相手がそこにいなくても、すでにいるような気分を味わっていたりするからかな……。
それを自己満足とか独善と表現することもありますが、自己満足も独善も、それぞれ満足と善の仲間であって、ないよりはあるほうがイイと思います。
なので、思う相手にできる限りいろんなことをする、相手が動物ならいろんなことをしてあげる……そんな、嬉しくなれる時間をたくさん持てるといいですね。
このブログに設定しているカテゴリーの”散文”……って、このブログを始めたばかりの頃にそれらしいものを2〜3書いて以来、何年も分類することがありませんでした。
かなり久しぶりになりましたが、たまにはこういうテーマもいいですね。
……さて、一段落したら海洋葬〜。泳げうさぎ〜。
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