フジ見えちゃった2019/03/15 16:02

今日の話題は自然破壊のことに触れるので、ちょっとテーマが重めです。

ブログの趣旨から微妙にそれる話題もありますので、興味のない方はここで「いち抜けた〜」してください。

 

 


では、話を始めましょう。

目の前の小山(こやま)が開発で削られて、あっという間に森がなくなってしまった、というお話をしたばかりです。

やっぱり、今年はウグイスの声が聞こえてきません……というよりも、自宅の周囲から森や林と呼べるエリアがついに消えてしまったので、毎朝、野鳥たちの清々しく響きわたるさえずりを聴く生活は、なくなってしまったのかもしれません。

仕方がないので、あまりにも微々たる努力ではありますが、庭の植物をもっと充実させようと思いました。それから、これまで森の生きものたちが運んできた木や草花(種から生まれた)を、できる限り守り育てたくなりました。

「かつて森があって彼らがいた頃の名残り」そう思うとますます愛着がわいて、彼らの通り道にはえる雑草すら愛おしく感じられる日々……。

 

そんなわけで、目の前にあった小山の破壊には、思ったより心理的ダメージを受けまくっているのか、なかなか吹っ切れません。たぶん、森の方から聞こえていた小鳥のさえずりがなくなると、春の朝がこんなにも沈黙に沈むのかと、毎朝のように愕然としているからかな。


それで、つい「いまどきは空いた土地や空いた建て物がそれなりにたくさんあって、しかも、これからそういうものが増えて行く地代だから、わざわざ開拓開墾をする必要はないんじゃない?」……とブツブツぼやいてしまいます。

開発は、すでにあるものを再利用するほうが、空き家や空きビル問題を解決できるのにな〜。

 

そんなこんなで、森が消えた影響で見えるはずのなかった富士山が見えるようになりました。フジ見えは、いずれそこに建つ建て物の売りのひとつでもあるようです。


ちなみに、富士山って天候が良ければ、ほんのちょっと外を歩いただけで、どこからでも見られます。だから見たければ、ちょっと外へ散歩に出て数分も歩けばいいわけで、だいたい近所のスーパーに買い物に出かけるだけでも目の前に富士山が見えます。

それに見られる回数が多いのは冬の晴れの日で、夏は気象上の影響であまり見ることができないので、いつも見えることにこだわるのはちょっぴり疑問かも。

それを知らないと、いつも見えているように錯覚すると思いますが、スモッグや雲に覆われて見えない日のほうが多いです。どういっても天候という自然減少が相手なので……。


ともあれ森があるほうがだんぜんよかったです。 

あぁ〜動物たち〜無事に逃げられたかな〜。

もう、失った森はかえってこないので、いつまでも嘆いてばかりはいられませんが……。


で、せめてもの救いです、気を取り直して「家から富士山がみえてよかったじゃん」というふうに思い直したとしましょう。

もともと森があったところに建て物が建つだけなので、単純に考えても富士山は見えなくなると思います。

それに、いずれ建つ大きな建て物は、景色がよいことをうたっているわけで、そうなれば経験則上、富士山はその建て物にさえぎられる確率がさらに高いです。


実はこういうことって、近隣でよくあるのですよね……この界隈の土地に家や建て物を建てるときにもっとも起きがちな出来事、建築基準ギリギリいっぱいの高さまで建てた家屋や建て物が、背後の高い位置にたっているはずの家の視界をブチっと遮ってしまう、という惨劇。


……なので、どう転んでも残念さが募る気配が濃厚だったりするのでした。


少し話がわかりづらいと思うので、その昔、友人宅を襲った災難を例にあげましょう。

屋上がテラスになっている二階建ての家から遠くに海が見えていた→下の段の家が売りに出された→中古の家が壊されて新しい家が建った→その新しい家の大きな屋根で海の眺めが寸断され水平線は大屋根の右と左にチラッと見えるのみになった 

こういう出来事は他にも……。景色眺望狙いで家を買おうとした場合、丁寧な不動産屋さんなら起こりうる事例として前もって教えてくれたりします。


ということで、環境破壊はしないに越したことはありませんが、宅地の造成のために環境を壊したのなら、せっかくいただいた自然環境を人間同士で気持ち良く、大切に使えるといいですね。


人にも環境にも自然にも、いろんな生きものたちにも、優しくありたいものですね……。

 

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